月曜日, 12月 11, 2006

お正月

子供の頃、お正月は何といっても一年中で最大のイベントだった。商売をやっていたので、年末はとても忙しい家だった。大人はお正月用のもち米や灯油の配達、年末の集金と寒風の中を走り回っていた。兄弟も高校生くらいになると、このときばかりはまじめに手伝っていた。祖父母と同居していて、お正月には父親の兄弟が集まってお祝いするのが、恒例だったので、嫁の母親はやることが多く大変だった。しなければならないことを紙に書いて、冷蔵庫に貼っていた。29日か30日には餅をついて、鏡餅を作る。御節料理もたくさん作った。私は紅白の蒲鉾を切ったり、鰤の照り焼き、紅鮭の塩焼きが焦げないように見ていたりと、火燵に入ってミカンを食べている合間にやった。黒豆、高野豆腐、干し椎茸などを味見し、金時に入れる甘栗をつまみ食いしてしかられた。大晦日は注連縄、鏡餅の用意、年越し蕎麦の準備がやっと終わる頃、紅白歌合戦が始まる。山内アナウンサーの美空事件が懐かしい。紅白が終わり、行く年来る年を見て、夜12時になると、まだ起きている家族にあけましておめでとうございます。と挨拶して回った。祖父母はとうに寝ているし、母も寝ていることが多かった。新しい年になるというだけでやたら興奮してうれしかった。

子供の時、お正月がうれしい最大の理由は、何といってもお年玉がもらえることだった。家族一族がお正月のお祝いに集まって、まず子供たちにお年玉の入ったぽち袋を渡す。低学年の時は2千円、高学年ではだいたい5千円が相場だった。毎年、祖父母のぽち袋が最高額と決まっていた。小学校4年生くらいの時だったと思うが、正月明けに商店街のおもちゃ屋が開いたと聞くと、貰ったばかりのお年玉を持って、飛んでいった。何を買うか色々迷ったが、なかなか決まらない。兄弟はすでに欲しい物を買って帰りたがっている。私は自動編み機という、おもちゃの編み機を買った。特に手芸が好きだったわけではない。ただ、決められなくてとりあえず選んだ。編み機は数回使って、その後長い間私の戸棚の中で眠っていた。その後どうなったかは知らない。今、この編み機の話を中学生の子供に話すと、かなり受ける。

実家の2階の壁に、お正月の記念撮影の写真が並んでいる。祖父母は数年前に亡くなり、子供たちはそれどれの家庭を持って子育ての真っ最中である。